心に残るいい話(1)         

   項 目 心温まる話です。道徳や短学活に使うといいかもしれません。
学年最初に生徒に聞かせたい話  アフリカのナイル川を、アリが移動するそうです。一度に三千匹も移動するといいます。アリは泳げないはずです。浮くことはできますが、やがておぼれてしまうでしょう。では、どうやって三千匹の大群が川を移動するのでしょうか。
 三千匹のアリが、一つの大きなかたまりをつくります。黒いサッカーボールのようなかたまりでしょう。そしてお互いが離れないようにしっかりつながります。そのまま川に浮くと、三分の一は水面から出ていますが、残りは水の中です。このままでは、水面上の三分の一は生き残れても、残りの三分の二、つまり二千匹は死んでしまいます。
 そこで流されていく途中で、水面上のアリは次第に水中に入り、そのかわり水中にいたアリが水面に浮かび上がります。しならくの間は水の中にいても大丈夫ですから、このように次第に交代しながら水面下にもぐったり、水面上に浮かんで息をしたりします。水面上に出ている1千匹のアリのために、他の二千匹は下に潜って、その支えとなるのです。たっぷり息を吸い込んだアリは、次に自分たちがみんな下になって、それまで下にいたアリが浮かびあがるように支えます。
 そのようにしながら流されていくうちに、どこかの岸に流れつき、そこでようやくアリのボールはくずれて、みんな歩き始めます。
このようにして三千匹のアリたちは、あの大きな川を、ほとんど犠牲を出さすに移動してしまうのです。なんという友情でしょう。もしも、三千匹のアリたちが、みんな自分だけ楽をしようとして、いつも水面上に出ようとするなら、二千匹のアリが死に、ついには全滅してしまうでしょう。
命の大切さを伝える話 「命」の大切さについて考えさせられる残念な事件は、現在でも数多く起こっています。ぜひ、今年の1年生のみなさんにも読んでいただきたいのです。

 「いただく」ことと、「奪う」こと

 小学校のころ私は夏休みになると、湖西市にある父の実家で2週間ほど過ごした。毎年の習慣だった。父親の実家は昔、みかん農家と同時に養鶏場をやっていた。だから、遊びに行くとよく、飼っているにわとりを「しめて」、ごちそうしてくれた。「しめて」といっても、首を絞めるなんてなまやさしいものではない。よく切れる鉈(なた)で、にわとりの首を、スパッと切るのである。
 飛び散る鮮血。散乱する羽毛。耳をふさぎたくなるような鳴き声...。まさにホラー映画みたいな状況である。
 でも、実家のおじさんも父も、幼かった私の目の前から「その事実」を隠すことはしなかった。最初はびっくりしたものだが、不思議と気持ち悪いとは感じなかった。その後は台所でおばさんが料理をするのを手伝った。さばかれたばかりの鶏肉はまだ温かかった。食品売り場に並んでいる鶏肉はあんなに冷たいのに....。
 それは毎朝、いとこと一緒に養鶏場で鶏卵を集めているとき、手のひらの上にあった、あの産みたての卵の温かさと同じだった。
 食事のとき、突然、気がついた。当時、小学校2〜3年生の私にも、はっきり分かった。なぜ食べる前に、手を合わせて「いただきます」と言うのか。何に対して手を合わせるのか? 
 それは自分が今から食べようとする「命」に対して、手を合わせるのだ。
 思えばそれが、「命」ということを感じた最初の体験であったと思う。
  「食べる」ことは「命を大切にする」ことと関わりが深いと思う。「食べること」は「命を奪う」ことだ。だからこそ、奪った命に手を合わせる。「いただく」ことにいつでも感謝する。だからこそ、必要以外に求めない。決して食べ物を粗末にしたり、無駄にしたりはできない。 
 あたりまえのことだが、人間は他の生き物の命を「いただく」ことで生きていける。それは他の動物も同じだ。「弱肉強食」というが、他の生き物の命を食べなければ生きていけない動物は決して強くはない。本当に強いのは、地中の養分と太陽の光で命を作る植物だと思う。
 人間以外の動物は必要以外に他の生き物を殺さない。生きていくことだけのために食べる。または、自分のなわばりや家族を守るために外敵を倒す。それだけである。
 それに対して人間は、悲しいことに必要もなく「命」を奪うことがある。現代では、特に戦争のない日本では、自分の命を守るために人の命を奪う必要がない。にもかかわらず、人の命は奪われる。やむをえない事故や過失ならまだしも、その理由が「人を殺してみたかった」 とか「ムカついたから」だとしたら、人間というのは、地球上で一番悲しい生き物だ。
「命の大切さ」とは、決して理屈ではない。説教されて分かることでもない。実感でしか分からないことだ。きみたちに、食べることを大切にすることで、「命の大切さ」を感じてほしい。
全世界が100人の村だったら もしも今日がついていない一日だと感じたあなたも
これを読んだら現実が違って見えるかもしれません
もし現在の人類統計比率をきっちり盛り込んで
全世界を人口100人の村に縮小するとしたら

その村には・・・
57人のアジア人
21人のヨ−ロッパ人
14人の南北アメリカ人

52人が女性
48人が男性
70人が有色人種
30人が白人

70人がキリスト教徒以外
30人がキリスト教徒
89人が異性愛者
11人が同性愛者

6人が世界全体の富の59パ−セントを所有し
その6人ともがアメリカ合衆国国籍

80人が標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めず
50人は栄養失調
ひとりは死にかかり、ひとりはもうじき生まれ
ひとり(そう、たったひとり)は大学での教育を受け
ひとりがコンピュ−タを所有している。

もしこのように縮小された全体図から私たちの世界を見るならば、
いかに相手を受け容れること、理解すること
そして教育が必要かは火を見るより明らかです。
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